新選組【半日で観光】ゆかりの地を巡るツアーガイド付き 宿泊プラン

幕末の京都と切っても切れない関係の新選組。

歴史好きにはたまらない史跡が数多く残っているのは、京都ならでは。

街を歩くと歴史ある建築物や史跡が多数点在!!

京都在住ベテランガイドと一緒に行く特別コースは新選組について新しい発見をさせてくれます。

目次

映画で新選組!!

2021年10月には司馬遼太郎原作の大人気歴史小説が映画化。

キャスティングは人気俳優などが多く出演しており歴史ファンだけではなく、若い人から多くの人が楽しめる映画となっています。

予告映像には京都にある世界遺産などの寺社仏閣での映像が多く用いられていて、90秒の予告編ですが、それを見るだけでワクワクしたり、感情が高ぶってしまいます。

映画『燃えよ剣』新予告映像 10月15日(金)公開
https://moeyoken-movie.com/

新選組の足跡をたどるツアーガイド(約3時間)

新選組ツアーガイドイメージ

新選組の誕生から、京都での絶頂期、そして「鳥羽・伏見の戦い」へ!!

戦いで敗れた後に、大阪を経由し江戸へ・・・。

激動の日本を進んだ新選組の足跡をツアーガイドと一緒に巡ります。

予約前にご確認ください

ツアーガイドは天候、交通状況等により変更または、中止になる場合もございます。
下記の訪問先では入場料が別途かかりますのでお支払いのご用意をお願いします。

・壬生の八木邸 ¥1,100
・島原角屋 ¥1,000
・壬生寺 ¥200

移動について

各史跡へは主に市バスで移動します。

プランには「市バス一日券」が付いています。

開始時間

【午前の部】 9:00~12:00

【午後の部】 13:00~16:00

どちらか、いずれかの時間をお選びください。

新選組について事前勉強しよう

You Tube

あまり新選組のことを知らない人にはYou Tubeなどで新選組の知識を得るのが簡単です。

出版社などから発売されている新選組の本を参考に作られている動画など情報はしっかりと纏めらていて、とってもわかりやすいです。

「新選組の足跡をたどる」コース概要

京都観光の穴場で京都へのリピーターの方にお勧めのコースです。

適度に歩くコースで京都の下町の風情を感じることが出来ます。洛中で幕末を特に感じ取ることが出来るコースです。歩きやすいスタイルで参加されることをお勧めします。

新選組についての概要の事前知識を持ってきて参加されると一層楽しみも増えると思います。

新選組モデルコース図

①ハトヤ瑞鳳閣 新選組最後の洛中屋敷跡

新選組最後の洛中屋敷跡

池田屋事件により新選組の功績が評価され、1867年6月、幕府直属の軍隊となり、新たな屋敷が建設することになりました。

それが現在ハトヤ瑞鳳閣があるこの地。ホテル敷地内には「新選組最後の洛中屋敷跡」の石碑が立っています。

②本光寺

伊東甲子太郎他三名が殉難した場所です。

参謀である伊東甲子太郎が意見の相違から新撰組から脱党。

慶応3年11月18日、近藤勇の別宅からの帰途、襲撃にあい、本光寺門前の門派石(題目石塔)により絶命しました。

③島原大門

島原大門

島原の東の入口にある島原大門(しまばらおおもん)日本における門の形式の一つである高麗門(こうらいもん)形式の門で幕末に再建されたものです。

その横には「見返り柳」があり情緒感じる場所となっています。

④島原角屋

島原角屋

旧花街である島原角屋(揚屋)は西郷隆盛、木戸孝允、伊藤博文らの明治の元勲ら、そして新選組が頻繁に利用し刀傷が多く残っていることでも有名です。

【拝観料】1,000円

⑤輪違屋・歌舞練場跡

輪違屋
現在も営業を続けている島原にあるお茶屋兼置屋の輪違屋(わちがいや)は、創業元禄元年(1688年)、置屋として始まりました。一見さんお断りのこの施設は、安政4年(1857年)に再建されたもの。明治4年(1871年)にはほぼ現在の姿になりました。

歌舞練場跡
島原は京都で唯一の幕府公認の遊里(ゆうり)です。島原歌舞練場は当初、島原女紅場といい、芸娼妓らに刺繍などの裁縫を教え自立して仕事ができることを目指して建設されました。明治6年(1873)に教育・勧業施設として設立。その後、教育内容に変化はありましたが、昭和2年(1927)には現在の場所に新築・移転。本格的な劇場施設となりましたが、平成8年(1996)に解体されました。

⑥壬生寺

壬生寺

名刹壬生寺は芹沢鴨等の墓がある新選組にとってゆかりのある寺で鴨の葬儀はここで行われました。
京都三大念仏狂言が有名で重要文化財の舞台で行われます。
【拝観料】200円

⑦壬生の八木邸

壬生の八木邸

新選組最初の屯所では芹沢鴨が粛清された部屋が残っており刀傷址もある興味深い場所です。

抹茶と屯所餅付で1100円。圧倒的にリピーターに人気な場所です。
【拝観料】1,100円

⑧古高俊太郎 邸跡

古高俊太郎 邸跡

池田屋の近くにあるのが古高俊太郎寓居跡の石碑です。古高俊太郎は商人に扮し長州間者の大元締めとして情報収集活動や武器の調達を行っていました。

しかし、新選組に踏み込まれ捉えられてしまいます。

武器などは押収され、諸藩浪士などとの血判状や書簡のやり取りが発見されました。

その後、過酷な拷問をうけ6月の下旬に風の強い日を選び、御所に火を放ち松平容保などの佐幕大名を暗殺し天皇を長州へ連れ去るという計画を自白させられました。

その情報をもとに新選組は池田屋を襲撃し、クーデター計画を未然に防ぐことになり新選組の名前は世間に広まりました。

⑨中岡慎太郎 寓居跡

土佐藩郷士の中岡慎太郎で坂本龍馬とともに薩長同盟成立に活躍した人物です。

坂本龍馬が組織した亀山社中が海援隊として結成されたのに続き、中岡も長州での奇兵隊を参考に、土佐藩に付属する遊軍として陸援隊を結成しました。

こちらの石碑は脱藩後の中岡が身を寄せた土佐藩御用達書林菊屋跡の石碑です。

⑩近江屋

近江屋

近江屋事件の舞台となった近江屋。

坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺された場所です。

現在その場所は京都の繁華街の中心にあり、お店としては存在していません。坂本龍馬は襲撃直後に命を落とし、中岡慎太郎はその2日後に亡くなりました。

犯人は未だに判明しておらず、今なお謎になっています。

⑪池田屋跡

池田屋跡

新選組の名を京都中に知らしめた池田屋事件の跡地です。

現在は池田屋という名の居酒屋になっており、新選組ファンの食事場所になっています。

1864年7月8日の夜22時、20数名の攘夷派を相手に「近藤勇」「沖田総司」「永倉新八」「藤堂平助」の4名で突撃し、残りは表を固めていました。

沖田総司は戦闘中に吐血しその場を離脱しています。この池田屋の功績が評価され新選組は幕府直属の組織となり最盛期を迎えます。

⑫三条大橋に残る刀傷址

三条大橋に残る刀傷址

池田屋事件の時の擬宝珠に残る刀傷あと。

観光客がさわるので黒ずんでいます。

別の擬宝珠には豊臣秀吉が公儀橋として架橋した五奉行の増田長盛の銘が残っています(重要文化財)。

スタッフより

司馬遼太郎は年末年始には京都のホテルで過ごす習慣を持っているという話を聞いたことがあります。

そんな時、友人・知人が訪ねて来る際には東寺の「御影堂」待ち合わせるという決まった流れがあるようです。ハトヤ瑞鳳閣から東寺までは徒歩で20分ほど。

司馬遼太郎が数多く訪れていた東寺、新選組最後の駐屯跡でもある当館で歴史ロマンを感じていただけるはず・・・。

新選組に関する多くの書籍が出版されていますが、2021年10月公開予定の映画では司馬遼太郎の本が原作となっています。新選組の局長は近藤勇ですが、それ以外にも多くの個性ある人物が新選組にはいました。「土方歳三」「沖田総司」「斎藤一」。

組織ではなく、個々の人物だけで楽しめる個性豊かな人の集まりが新選組の人気の一つのかもしれません。

新選組 豆知識

油小路事件

伊東甲子太郎が暗殺さたこの事件。 新選組と御陵衛士との抗争もホテル近くの油小路七条での出来事です。御陵衛士(ごりょうえじ)は、孝明天皇の陵(後月輪東山陵)を守るための組織として結成。 新選組を離脱し御陵衛士を結成した伊東甲子太郎が勤王倒幕運動に尽力し、薩摩藩とで新選組局長の近藤勇の暗殺計画を企てていることをスパイとして入っていた斎藤一が新選組に伝えました。 近藤勇は相談事があると伊東甲子太郎を呼び出し宴会を催します、その帰宅途中に新選組を待ち伏せさせ、暗殺。 その場所がちょうど七条油小路の本光寺近くであったそうです。 遺体は放置され、遺体を引き取りに来た御陵衛士をまとめて始末しようとしと抗争が続きました。

光縁寺

壬生地区にある光縁寺には山南敬助等の墓があり供養料100円払えばお墓参りもできます。

【供養料】100円

局中法度について

新撰組には厳しい決まりがあったことでも知られています。
5つの決まりごとを破った場合は「切腹」となります。 

一・士道ニ背キ間敷事(武士道に背く行為をしてはいけない)
一・局ヲ脱スルヲ不許(新撰組からの脱退は許されない)
一・勝手ニ金策致不可(無断で借金をしてはいけない)
一・勝手ニ訴訟取扱不可(無断で訴訟に関係してはいけない)
一・私ノ闘争ヲ不許(個人的な争いをしてはいけない)
右条々相背候者切腹申付ベク候也

近藤勇らと新選組を結成した山南敬助(みなみやま けいすけ)は副長や総長を務めていましたが、近藤勇や土方歳三と仲が悪くなり対立したことから脱走し、ご法度となったため切腹しました。

鳥羽伏見の戦いで新選組は何をして、どうしていたのか?

日本の歴史は、現在のわれわれの生活に礎が築かれた年代を考慮すると、約1500年程度となります。
飛鳥時代から始まり、明治維新がおもな歴史の概要になるわけです。
そのなかでも近代国家に直接関係をしているのが幕末から明治の間といえるでしょう。

300年間もの長い期間、天下泰平を成し遂げた江戸幕府は、天皇を筆頭にした官軍に敗れ去って歴史に終止符を打ちました。このとき、江戸幕府側について戦った武士の集団を新選組といいます。
現在の茨城県で生まれた近藤勇が頭領となって、各地から引き抜いた浪人で構成をされた集団です。もっとも激戦となった1820年の鳥羽伏見の戦いの折りは、新選組は京都市中で警護にあたっていました。本来であれば幕府側の筆頭で戦をしないといけませんが、この当時はまだ京都の市中は幕府側の陣地となっていたので、官軍側に攻められないようにしないといけなかったわけです。

鴨川から御所・平安神宮一帯で新鮮組は本拠地を作り、しっかりと警護にあたりました。鳥羽伏見に戦いは約1年半もの長い間、ずっと続いており犠牲者の数は両軍合わせて4万人となったほどです。
江戸幕府に終止符を打った天下分け目の戦いでもあり、1824年に官軍が勝利をして終わります。その後、新選組は近藤勇と土方歳三だけが日本列島を北上して、官軍と最終決戦をすることとなります。

二人の出身地である茨城県と福島県の譜大名の力を借り、会津若松の白虎隊と連合を組んだ戦を続けました。

この戦で近藤は命を落としますが、土方は北海道の五稜郭へと出陣をして、榎本武明と共に明治維新へと時代が変わったあとも戦いを続けるに至りました。
新選組という組織は、鳥羽伏見の戦いが終わった時点で消失をしています。
新選組は本来、京都市中見回り隊という役目を担っていたので、最終的には組織本来の任務を遂行していたと言えるでしょう。

総勢109名の隊士によって、京都は戦火を免れたわけです。